今年の統一地方首長選挙には20兆ルピア(約1500億円)の予算が使われたという。全有権者の4人に3人が参加した規模から見ても「全国選挙」と呼んで良いだろう。しかも「想定外」の開票結果が次々に報じられたので、ニュース番組は大いににぎわった。
話題が多すぎて見過ごしそうだったが、候補が1組しかいないのに、「落選」したマカッサルの市長選挙が面白かった。この候補は、市議会に議席を持つ11政党のうち10政党から公認を受けていたから、普通なら二重丸で当選確実だったはずだ。この結果は見方によってはそう快ですらある。
インドネシアでも「主権者は国民だ」と喧伝されているが、その実態は有権者軽視の政治が横行して国民の間にはフラストレーションが鬱積(うっせき)していると言われて久しい。その国民がいよいよ「有権者の存在感」を発信したようにも見える。日本では、信任投票も3選禁止の規定もないから、多選の首長の無投票当選も珍しくない。7選を果たした県知事が話題になったこともある。それに違和感を感じる者には、むしろこの国のやり方に親近感を感じるかも知れない。
ところでマカッサル市のように「有権者の存在感」が示された後は、どうなるのだろう。専門家の説明では、すぐに選挙のやり直しが行われることはないそうだ。まず政府が知事(あるいは市長)の代行を任命する。しかも代行の任期は次の統一首長選挙、つまり2020年まで続く。選挙で信任されなかったから、選挙を経ない首長代行が行政の責任者になることになる。有権者が毅然と「ノー」と意思表示をした結果、逆に国民の政治参加が遠退く仕組みのようにも見えるのだが、大丈夫だろうか。
先月の首長選挙ではすでに任期が終了した首長の代行に、内務相が警察の現職高官を任命して大騒ぎになった。その自治体の選挙区には直前まで現職だった警察官が立候補していたのだからある意味で当然の騒ぎではある。疑い出せばキリはないが、やはり信任投票後の代行任命には釈然としないところが残る。
信任投票はマカッサル市の他にも15自治体で行われた。潜在的な立候補希望者が多いのに、なぜこんなに単独候補が生じるのだろうか。大方の専門家の一致する理由はやはり巨額な選挙費用だそうだ。去年、グリンドラ党のプラボウォ党首が、「立候補希望者と会ってまず最初に聞くのは、『いくらお金を持っているか』だ」とある懇親会であいさつし、州知事候補なら3000億ルピア(約23億円)は必要と付け加えたのが記憶に新しい。
別の理由は、無所属で立候補する条件が厳しいからだと言う。大きな選挙区だと有権者総数の6.5%分の署名というから、有能でも組織的なバックの乏しい人には厳しい。
改革の時代に入ってからでも、インドネシアの首長選挙は地方議会での間接選挙から、2005年の直接選挙へ、そして2015年以後は段階的な統一選挙に入っている。紆余曲折はあるがどんどん変化している。批判や不満はまだ山のようにあるが、それを民主化のエネルギーにしてきている。少し長い目で見るとこの国の民主主義は日本よりもむしろダイナミックに進化しているようにも見えるのだが、どうだろうか。(了)
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