長いジャカルタ州知事選挙だった。選挙戦直前にアホック知事がイスラムの聖典を引用したスピーチを行った後、あの発言は宗教の冒涜(ぼうとく)だと大騒ぎになってから半年余り、最後まで宗教に揺れ、宗教が勝敗を分ける選挙だった。
決選投票では、有権者の7割以上が評価する実績を武器にして論戦を挑む現職知事に対して、閣僚としての行政経験もありインドネシアを代表する若手知識人の挑戦者が正面からこれに応じたため、インドネシアでは珍しく見応えのある論戦が展開された。
現職知事として前回選挙での約束をどれだけ実現したかと追求したり、挑戦者の公約に果たして予算上の裏付けがあるのかと検証したりと、今後の選挙でもこうした論戦が引き継がれれば、この国の民主主義や地方自治の将来にとって大きな意味を持つだろうと期待されたが、結局は人種や宗教などの伝統的な要因の方がまだまだ大きな集票力を持つことが得票結果から明らかになってしまった。
それにしても、あのアホック発言になぜ有権者はあれほど大きく燃え上がったのだろうか。ムスリムは圧倒的な多数派なのだから、もっとどっしり構えることはできなかったのか。
発言が選挙キャンペーン向けの扇動に利用されたことは明らかだが、有権者の心の中にもそうした扇動に反応しやすい土壌があったのではないか。それは何なのか。外国人の門外漢が外国の宗教問題について語るなど不遜極まりないが、インドネシア理解のひとつの試みとして、批判覚悟で敢えて有権者のイスラム的な心情について考えてみたい。 結論的に言うと、この国のイスラム社会が、国の為政者や権力者から不当な扱いを受けてきたという、ある種の被害者意識を抱えているために、外部からの批判や圧力に過剰に反応する心理状態を持つに至ったのでないかということである。二つの歴史的な事例を指摘してみたい。
ハビビ元大統領が故アイヌン夫人との一生を綴った本(後に映画化されて大ヒットした)の中に、スハルト政権初期のアラムシャ元官房長官がハビビ氏に語った言葉が紹介されている。「独立前は、インドネシア人は自らをムスリムと認めることに羞恥(しゅうち)心を持っていた。独立後も、彼らはムスリムと認めることに恐怖心を抱いてきた。そして(ハビビ氏がイスラム知識人連盟を創設してようやく)インドネシア人は自尊心を持って自らをムスリムと名乗るようになった」。
この発言はおそらく1990年頃のものであろうと思われる。軍事的にも文化的にもオランダの支配下にあった独立前の羞恥心はともかく、独立後はスカルノ初代大統領の下で「第3世界」のリーダー、スハルト政権では開発政策の成功により、「アジアの奇跡」を引っ張る新興国の一員として世界に認められていた。ムスリムはインドネシアで9割近くを占める圧倒的多数である。その「大国インドネシア」の主人公であるムスリムがなぜ恐怖心を抱かねばならないのだろうか。
第2次世界大戦の末期、独立宣言を前にした憲法議論の中で、大きな焦点のひとつとなったのがイスラム教を国家の中でどう位置付けるかということであった。厳しい議論を経て、イスラム教を国教にせず、宗教の自由を国家統治の基本原則のひとつに据えることが最終的に決まった。多種多様な国民からなる国家の民族的な融和と統一を最優先した結果であると言われる。
未だに多くの国で宗教や人種の違いが原因で国が分裂し、戦争や紛争が絶えない世界の現実に照らして考えると、インドネシア建国の指導者達の英断には驚くばかりである。もし「イスラム国教」を選択していたらこの国の歴史は全く違っていただろう。しかし、国民の85%を占めるムスリムにとっては、いかにインドネシア民族の団結と連帯のためとはいえ、苦しい選択であったに違いない。ムスリムが人口の6割ほどの隣国のマレーシアがイスラム教を連邦の宗教にしていることを見るにつけ、自己犠牲とも呼べそうなこの宗教上の決断は深いものがある。
しかし当然のことながらイスラム社会の中にも様々な考えがあり、イスラム国家という宗教的な理想を放棄することを潔しとしない人々も少なくなくなかった。彼らはイスラム国家建設のため武力闘争に訴えた。これは国の基盤が未だ不安定だった新生インドネシアにとっては独立が空中分解しかねない重大な反逆行為であった。
これ以降イスラム国家を志向する考えは国家の存立を揺るがす危険思想という烙印を押され、更には宗教的な主張を政治の世界で強く訴えると、イスラム国家的な考えの持ち主ではないかと疑われる雰囲気が生まれた。国が安定し人々の生活にゆとりが出始めてからも、政府は宗教と政治を切り離すことに腐心し、それを支える厳しい監視社会が長く続いた。敬虔なムスリムにとってはある意味で重苦しい社会であったろうと思われる。
これが冒頭の「ムスリムの恐怖心」のひとつの背景ではないかと思う。建国から独立戦争、そしていくつかの歴史的岐路で大きな貢献を果たしてきたと自負するムスリムにとっては、この現実はいかにも不合理なことであったろう。民族国家という舞台の主役どころか、舞台で自由に振舞うことすらはばかられるという意識が浸透したように思われる。
スハルト政権下の経済は世界銀行が「アジアの奇跡」と称賛した8ヶ国の一角を占めるほどの目覚ましい発展を遂げた。独立後の長い政治混乱を乗り越え、ようやく人々が都市を中心に豊かさを享受できる時代が到来したのである。
しかし多くの国民の間には、「発展に取り残された都市と農村の一般大衆」という感情が残っていた。経済指標は経済の底上げも示していたが、庶民感情は別なところにあったと言える。豊かさを最も享受しているのは誰か、一握りの有力者と非イスラム教徒の(華人系)財閥ではないかという不満である。
彼らにとって「発展に取り残された一般大衆」 とは「貧しいイスラム大衆」と同義語として語られていた。政府のいわゆる「経済開発の成果の滴り理論」に対して建国の理念である「民族経済」が根強く支持されていた。独立でオランダ人は主役の座を去ったが、次の主役となった指導者層の下でも相変わらず一般国民の利益は後回しにされている、一般国民(イスラム大衆)はいつ自分の国の主役になれるのか、という意識であろう。
以上のようなイスラム感情について、私の個人的な印象を述べさせて頂くと、スハルト大統領の退陣を受けて「改革の時代」が到来し、しばらくの混乱を経て安定した政治と経済回復が実現した時に、そうした感情は徐々に過去のものとして語られるようになるだろうと私は思っていた。政治が開放され、財閥は相変わらずだが中産階級が大きく存在感を示すようになったことが大きな理由だ。自動車も化粧品もファッションも、テレビ・コマーシャルの大きなターゲットは今や普通のインドネシア人だ。
それだけに今回のジャカルタ知事選挙で未だにイスラム社会が容易に扇動に乗るメンタリティーを色濃く残していることには改めて問題の根深さを感じさせられる。しかし別の見方をすると、非ムスリムで華人系の指導者が宗教的な失言をしたにもかかわらず、イスラム指導者を含めた多くの国民が国民の多様性と融和を守るべしと立ち上がり、国民的な運動が起きたことは大きな変化ではないだろうか。
比較としては適切でないが、過去には些細な原因で反華僑暴動が発生したことを考えると、社会の成熟は明らかのように見える。むしろ宗教や人種問題を誘発しかねない経済格差や社会の歪みを放置することはできない現実を政治エリートに再認識させる良い機会になったかも知れない。(了)
0コメント