前回に続き今回もインドネシア女性解放運動の先駆者にして国家英雄のラデン・アジェン・カルティニについて、今年4月に公開された映画 Kartini (ハヌン・ブラマンティヨ監督)を手掛かりに、カルティニの実像とフィクションの関係を語ってみたいと思います。まずは映画の紹介から。
2017年版の映画 Kartini ポスター
カルティニを主人公とした映画は、1982年に『R.A.Kartini』(シュマンジャヤ監督)が、また昨年2016年には『Surat Cinta Untuk Kartini』(アズハル・キノイ・ルビス監督)が、それぞれ製作公開されており、今作で3度目の映画化となります。82年の作品は日本の映画祭でも上映され、その後NHKのBSでも放送されました。2017年版はインドネシアではトップ女優の一人と目されるディアン・サストロワルドヨが主演し、製作に時間も予算もかけたことが推察される堂々たる作品でした。
日本でも単館劇場公開された『ビューティフル・デイズ』(2001年インドネシア公開、原題 Ada Apa Dengan Cinta? )の主演を務めたディアン・サストロは正統派の美人女優、出演作品こそ多くはないものの確かな演技力と美貌、そして人気を考えれば、インドネシアの国家英雄を演じるには正に適役と言えるでしょう。また、劇中でカルティニの実母を演じるのは日本をはじめ海外でもよく知られた国際派にして国民的女優のクリスティン・ハキム、映画内ではカルティニに辛くあたる義母は82年版を監督したシュマンジャヤ監督の娘ジュナル・マエサ・アユ、慈愛あふれる父親はベテラン俳優のデディ・ストモ、かわいい妹二人にはアユシタ・ ヌグラハとアチャ・セプトリアサ、わずかな出番ながらカルティニに決定的な影響を与えた兄にはイケメン男優レザ・ラハディアン。いずれも実力派の俳優がしっかり脇を固めており、観客は安心して物語に身を委ねることができます。
上が実在のカルティニ姉妹。左よりカルティニ、カルディナー、ルクミニ。
下が2017年版で演じた女優たち。ディアン・サストロワルドヨ、アユシタ・ヌグラハ、 アチャ・セプトリアサ。
ここで本作の具体的な内容に踏み込む前に、一般論として偉人伝をどのように映像化するか、伝記映画のあり方について考えてみたいと思います。
過去120年の映画史において、偉人伝はそれこそ無数に撮られてきました。思いつくだけでも、スティーブ・ジョブズ、サッチャー、ホーキング、チェ・ゲバラ、チャップリン、ガンディー等々、おそらく作品リストを作るとすれば長大になります。近年は技術の進歩もあり、本人そっくりの俳優が仕草やしゃべり方までまねて観客をうならせることもしばしばです。
しかしどれだけ実在の人物に似せることに成功しても、彼/彼女の人生に何が起きたか、そして彼/彼女は何をしたか、すでに知っている多くの観客を満足させることは容易ではありません。よく知られた挿話をつなぎ合わせただけではただのダイジェスト版になってしまいますし、逆になんでもかんでも描こうとすれば大味である、冗長すぎると酷評されます。
特に近現代の人物の場合、詳細な伝記が出ていることが多いので、あの挿話が語られるのに別の面白い挿話は何故省略するのだ! と観客から突っ込まれることは避けられません。何より存命中の人物でない限り、私たちは結末をすでに知っているわけで、製作者としては最大公約数的な作品を目指すことが多いように思えます。
一方、才能ある野心的な監督の場合、時系列をバラバラに組み替えたり、類似の出来事を反復したり、あるいは回想場面を効果的に挿入することで、一般的に知られている偉人の別の一面を浮き彫りにしようとするようです。
さて、このようなある種の制約がある伝記物として、本作はどのようなアプローチを取っているかと言えば、極めてオーソドックスな方法、カルティニの子ども時代から結婚するまでを時系列で語っていきます。回想シーンはわずか、語り手の視点が入れ替わることもなく、彼女の人生をよく知らない観客にとっては分かりやすい語り口と言えるでしょう。ヒットメーカーであるハヌン監督らしい、奇をてらわない堅実な演出です。と同時に、私のようなうるさ型の観客も満足させるいくつかの美点を本作は備えています。
まず第一に時代考証です。ジャワ文化が高度に洗練された礼儀作法と言語体系を持っていることは有名ですが、本作ではそれらを忠実に再現しています。自分より目上や位の高い人物には拝むような姿勢を取り続け、決して腰を上げてはならない様子などを本作で初めて見た人は少なくないでしょう。
また台詞の多くはジャワ語ですが、オランダ人との会話や手紙はもちろんオランダ語、早い話インドネシア語字幕がこれほど出てくるインドネシア映画はそうそうありません。私はジャワ文化にもオランダ語にも精通してないので、その正確さをはかることはできないものの、映画製作者たちが衣装や作法や言語を忠実に再現しようとしていることは疑いようがなく、観客をカルティニが生きていた時代へタイムスリップさせることに成功しています。
第二に婚前閉居(ピンギタン)のため行動が制約されていた事実を逆手に取り、いくつかの幻想場面や映画的サスペンスを効果的に挿入、実際には非常に内省的だったと思われるカルティニの一生を十分躍動的なものとして描写して平板さから逃れています。読書に没頭しているうちに物語の登場人物たちが目前に現れ対話してみたり、兄たちの意地悪で外に出られない姉妹が裏をかいて伝言を届ける場面には思わずニヤリとしてしまいます。
中でも見事な映画的な処理として成功しているのは、カルティニがオランダ人のペンパルであったステラと言葉を交わす場面ではないでしょうか。姉妹と日本の「キモノ」を浴衣のように着て写真を撮るべくフラッシュがたかれた次の瞬間、風車のある典型的なオランダの田園風景の中に翔んでいるカルティニ! オランダ留学の夢を持ちながら結局はあきらめるしかなく、親友ステラと実際に会う機会もなかった史実を思うと、短いながらももっとも印象的な名場面となっています。
第三に母と娘の物語として一本筋を通した構成にしたこと。カルティニの実母は身分が低くあくまで妾(めかけ)だったため、幼少期以降は実母を母と呼ぶこと、一緒に寝ることが許されず、父の正妻を母と呼ぶしきたりに従う場面を冒頭に置き、終盤は部屋に閉じ込められた娘を実母が救い出し二人だけの対話を通して親子の絆を回復、二人の母同様に一夫多妻を受け入れた後の結婚式では敢えてしきたりに逆らうことで実母への深い感謝を示して本作は幕を閉じます。
今は廃れたものの、かつては一大ジャンルだったお涙頂戴の母ものの片鱗を今作は見せると同時に、時代を超えて観客の情感に訴える構成は結果として強い普遍性を獲得していると私は思います。封建主義の擁護ではないかとの批判があることは承知の上で、しかし物語としてはスッキリしており、史実とのバランスもある程度取れていることは評価すべきでしょう。
日本のキモノを着ているカルティニ姉妹。1903年撮影。
当時欧米で流行りのジャポニズム(日本趣味)の波が中部ジャワのジュパラにも届いていたのだろうか。
以上、本作の見どころを数点述べてみましたが、では逆に本作が描かなかったこと、欠けているものは何でしょうか?
それはナショナリズムであり、あるいは植民地支配の実態を示す描写に他なりません。これは昨年の『カルティニへの恋文』と比較すると明確です。
後者ではカルティニとオランダ人との短くも重要な対話が浜辺で2回あります。1度目は「原住民は立ち入り禁止」の看板がある浜辺でオランダ人の少女たちに向けて看板の内容を抗議する場面、2度目は彼女のオランダ留学を後押しするはずだったアベンダノン氏から留学の夢をあきらめるよう告げられる場面。
ともに相手はオランダ語を話すのですが、オランダ語が流暢だったはずのカルティニに劇中では敢えてインドネシア語で反論させています。これは嘘っぽいというだけでなく、ナショナリズムの論理をリアリズムよりも優先させた結果と私は解釈しています。率直に言って、『カルティニへの恋文』は強引にフィクションの人物を造形したためにご都合主義が目立ち、映画全体の出来としてはあまり良くないのですが、この二つの場面をもって、ひょっとしたらインドネシア人の民族主義者はこの作品を『カルティニ』よりも高く評価するかもしれません。逆に言えば、その位、分かりやすいナショナリズムは希薄なのが本作の特徴です。
何よりもここには「良きオランダ人」しか登場しません。ジャワ戦争がとうの昔に終結し、オランダ植民地支配がすでにどっぷり根を下ろしていたのが当時の中部ジャワではありながらも、カルティニも家族もその周囲の人間も間接統治とは言え、オランダによる支配に何の疑問も持っていないように描かれ、その矛盾が暴かれることもありません。
あまりにもオランダ人たちを物わかりの良い、地元の文化を尊重する、親切な紳士淑女然と描いている点はやや不自然と指摘しなくてはなりません。何もオランダ人を悪人と描写していないから、本作はダメだという立場を私は取りませんが、ただ死後まとめられたカルティニの書簡集を倫理政策推進の上でも利用したオランダ政府、何よりカルティニに勉学の夢を吹き込みながら最終的にははしごを外した疑惑が濃厚なアベンダノン夫妻、彼らへの言及や描写がまったくなされていないことには納得のいかないものを感じています。
ここで例えば同時代人のチュッ・ニャ・ディンがオランダにとってどのような存在であったかを考えてみれば、カルティニがオランダにとって都合の良い存在であったことは否定できないでしょう。
ただカルティニの名誉のために補足しておけば、彼女はオランダ語を通じて近代的精神を身につけジャワ社会の因習に厳しい目を向けましたが、決して盲目的な欧化主義者ではなく、むしろオランダ人の偽善ぶりをあけすけに批判もしてます。オランダ語を修得し自己を客体化することが出来たからこそ、自らが属する社会の美点も欠点もよく理解できたわけです。本作に出てくる挿話の一つ、兄からは田舎くさいと馬鹿にされていた木彫りの価値を認め、職人たちに博覧会出展の作品を作らせたことは、まさしくカルティニによる「伝統の再発見」でした。
本作が描いたこと描かなかったことをこうして列挙してみて改めて気づくのは、カルティニという一人の聡明な女性が、相反する考えや価値観を同時に持つためにその狭間で悩み苦闘する姿です。それは近代ゆえ、植民地支配下のジャワに生まれたがゆえの苦悩ではあります。しかし現在も女性が直面する結婚や進学や男女不平等などの諸問題に引きつけてカルティニの一生を振りかえってみれば、彼女は我々観客の身近な隣人と言えるのではないでしょうか。
彼女の人生はわずか25年でしたが、その書簡は今なお我々にインスピレーションを与え続けています。彼女の一生をどのように解釈するか、本作はあくまでその一つであり、より多様な解釈が本作の観客の中から生まれてくることを私は期待したいと思います。
さて次回ですが、対照的な二人の女性国家英雄に続き、「共和国の父」と呼ばれる神出鬼没の共産主義者タン・マラカを取り上げる予定です。では、また来月!
<YOU TUBE>
カルティニ(2017年)予告編
https://www.youtube.com/watch?v=ePQV41Rk9uw
R.A.カルティニ(1982年)
https://www.youtube.com/watch?v=D9WaEzcg1IE
カルティニへの恋文(2016年)
https://www.youtube.com/watch?v=D9WaEzcg1IE
<映画データ>
原題 ; Kartini
劇場公開日;2017年4月19日
製作国;インドネシア
言語;ジャワ語、オランダ語、インドネシア語
スタッフ;製作 ロバート・ロニー
監督・脚本 ハヌン・ブラマンティヨ
共同脚本 バグス・ブラマンティ
キャスト ; ディアン・サストロワルドヨ、アチャ・セプトリアサ、アユシンタ・ヌグラハ、デディ・ストモ、ジェナル・マエサ・アユ、クリスティン・ハキム、レザ・ラハディアン
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