明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今年もインドネシアに関する諸々の事柄を私なりの視点で徒然なるままに書いていきたいと思います。
さて、前回までチュッ・ニャ・ディンにカルティニと、インドネシアを代表する国家英雄について映画や本を介して書いてきましたが、このまま偉人ネタ、英雄ネタばかり続けるのも芸がないと思うので、一応今回で区切りをつけます。
今回取り上げるのは、地球を2周するほど世界を股にかけた革命家であり、生前から民族運動の伝説的ヒーローとして名を馳せながら非業の死を遂げ、日本とも非常に深い因縁があり、長らく忘れられた存在でありながら、スハルト退陣以降のインドネシアで劇的に復権した、西スマトラ(ミナンカバウ地方)出身のムスリム男性。その名は、タン・マラカ。
晩年のタン・マラカ
ただ残念なことに、前回まで取り上げた2人とは異なり、タン・マラカの場合、彼の生涯や業績を網羅的に紹介する本や伝記映画などが日本語では広く出回っているとは言い難い状況にあります。彼自身の自伝と著作の一部は日本語訳があるのですがすでに絶版で、数冊の本の中で彼について触れている程度であるため、研究者や歴史愛好家を除けば、彼の名前を聞いた事のある日本人は相当少ないでしょう。よって、彼のことを全く知らない人にもその活動範囲の広さと冒険小説顔負けのスケールの大きさを理解してもらうために、彼の軌跡を以下に書き出してみます。
- 1897年(諸説あり) 西スマトラのパンダン・ガダンに生まれる。正式名はスタン・イブラヒム・グラル・ダトック・タン・マラカ。
- 1913年 若干16歳にしてオランダ留学。第一次世界大戦、ロシア革命に影響を受け社会主義思想に傾倒。あだ名は「ミスター・ボルシュヴィスキ」
- 1919年 帰国。「資本家には地上の楽園、労働者にはこの世の地獄」と呼ばれた北スマトラ・ディリの農園内の学校教師の職を得るが、オランダ人上司と衝突。
- 1921年 職を辞し、ジャワへ移る。アジア初の共産主義政党であるインドネシア共産党に入党。すぐに頭角を表し議長に選出される。
- 1922年 オランダ植民地当局により逮捕、国外追放処分。以後20年間祖国の土を踏むことはなかった。コミンテルン第4回大会に出席、モスクワ滞在。
- 1923年~25年 コミンテルン工作員として中国広州へ渡り孫文と会う。病気療養を兼ねてフィリピンへ移って活動。
- 1927年 前年のインドネシア共産党蜂起に断固反対するも説得に失敗、バンコクでインドネシア共和国党を結成。マニラで逮捕、国外追放処分。厦門へ渡る。
- 1928年~32年 上海、香港、厦門など主に中国で活動。香港で逮捕、国外追放処分。以後福建省付近に潜伏した模様。
- 1937年 日中戦争勃発によりシンガポールへ移る。彼をモデルにした荒唐無稽な冒険小説「インドネシアの紅はこべ」がインドネシアにて人気を博す。
- 1942年 日本軍のシンガポール侵攻直前に脱出、祖国へ20年ぶりに極秘に帰国。
- 1943年 日系資本の西ジャワ・バヤ炭田に事務員として勤務。ロームシャ(労務者)としてバタバタと死んでいく同胞を間近に見る。
- 1945年 独立宣言直前にジャカルタへ移り、スカルノら民族主義者たちに接触、自分が伝説の革命家タン・マラカであると名乗り出る。独立宣言起草の場に立ち会った西嶋重忠や独立革命軍に参加した吉住留五郎らと会う。闘争同盟を結成。
- 1946年 シャフリル首相やスカルノ大統領らオランダとの外交交渉路線派を脅かす存在となったため共和国政府によって逮捕。以後2年半拘束される。獄中で自伝『牢獄から牢獄へ』を執筆。
- 1949年 前年釈放されムルバ党を結成、完全独立を目指して東ジャワでゲリラ戦を展開。2月19日にインドネシア国軍に捕らえられ射殺された。
箇条書きにしただけではわかりづらいかもしれないので解説を入れますと、彼は生涯4度、いずれも異なる土地と当局によって逮捕されています。オランダ、アメリカ、イギリス、そしてインドネシア。そしてそのたびに不死鳥のごとく蘇り活動を再開しています。強運というだけでなく、インドネシアを共和国として独立させるという生涯ぶれない信念の持ち主だからこそ可能なことでした。
1932年香港で逮捕されたときのタン・マラカ
また、彼が非常にユニークなのはその国際性だけでなく、自身の政治的態度においても常に首尾一貫していた点です。バリバリの共産主義者でありながら、決して頑迷固陋(がんめいころう)な教条主義者ではなかったことは戦前戦後のインドネシア共産党蜂起に終始反対しつづけた事実からも明らかで、また当初はコミンテルンの指示で活動するも、アジアの革命はロシアを模倣することでは達成できない、革命家に共通するのはただ一つ唯物弁証法という思考様式のみ、と断言しています。
何度逮捕投獄されても理想を捨てずあきらめない。組織を離れてただ一人であってもなすべきことをなす。自らの権力奪取のためではなくインドネシアにおいて虐げられた人民(彼はムルバと命名)のために最後まで闘う。彼の思想そのものについて私は全くの勉強不足でとても適正に評価できないのですが、彼の一貫した行動原理には尊敬の念を抱いてます。とりわけ日本人にはもっともよく知られているインドネシア人の一人、初代大統領スカルノ(言わずとしれたデヴィ夫人の旦那)の態度と対比してみると、そう思わざるを得ないのです。
こんなエピソードをタン・マラカは自伝に記してます。
彼が偽名を用いてバヤ炭田で事務員として勤務している時に、日本軍に協力していたスカルノが遊説に来ました。インドネシアは日本と共に独立するだろうとスカルノが語るのを演説会場で聞いたタン・マラカは怒りとともに「独立とは日本からの贈り物か?」と詰問したと言います。ロームシャがどんどん死んでいく劣悪な労働環境を改善すべく働いていたタン・マラカにしてみれば、日本軍のプロパガンダを垂れ流すスカルノは、インドネシア独立の大義名分をもってしても、日本軍の傀儡(かいらい)あるいは日和見主義者以外の何者でもなかったのでしょう。
実際、本気かどうかはともかく、スカルノは現在のモナス広場での集会において「テンノウヘイカバンザーイ!」と叫んでいました。当然、日本敗戦後の独立革命の時期には日本軍協力者として青年層から突き上げをくらい、一時期タン・マラカ率いる完全独立を目指す勢力がスカルノやシャフリル首相ら外交交渉を目指す中央政府を脅かすことになったのはゆえなきことではありません。
実のところ、彼が祖国インドネシアで政治の表舞台で活動したのは1921年から22年、そして45年から46年の短い期間で合わせて2年程度に過ぎず、にも関わらず彼は生きながらにして伝説の人であり英雄でした。
インドネシア国外を長く流浪し、途中からはコミンテルンやインドネシアの民族運動団体や政党との連絡も途絶え、政治・大衆団体の要職にあったわけでもない彼がなぜ「伝説の英雄」になれたのか?
理論派の彼がインドネシア国内外で多くの著作をあらわし、それが民族主義者の間で広く読まれていたことも理由のひとつですが、彼の伝説的な名声を高めたのは『インドネシアンの紅はこべ』というタン・マラカをモデルとした大衆小説のおかげでした。これは英国の女流作家バロネス・オルツィの『紅はこべ』をもじったもので、大仏次郎の『鞍馬天狗』の原型とも言われてます。オリジナルの『紅はこべ』の舞台はフランス革命下、英国貴族率いる秘密結社「紅はこべ」が革命政府によってギロチン台にかけられる王党派を救出する物語ですが、『インドネシアの紅はこべ』では当時の現代世界が舞台、帝国主義とスターリン主義の圧政に対抗して、シベリアで、パレスチナで、上海で、そして蘭領東インドで、謎の民族主義者「紅はこべ」が神出鬼没、縦横無尽な活躍をするというものです。神秘的な「紅はこべ」が国外追放されたタン・マラカであることが読者にはわかる仕掛けとなっており、民族主義運動が停滞していた出版当時、この本は読者に熱狂的に迎えられたと言います。
さらに面白いのは荒唐無稽なフィクションのはずの『インドネシアの紅はこべ』をなぞるような噂や報道がその後出てくることです。曰く、タン・マラカはすでに蘭領東インドに帰国して活動している(実際にはシンガポール滞在の時期)、あるいは海外で逮捕され重傷を負った等々。こうした噂話は日本軍政の時期にも出回っていましたが、タン・マラカ自身もこうした自らの虚像を意識して行動していたようです。
こうして虚実入り混じった「伝説の英雄」は日本敗戦後のジャカルタに本名を名乗ってこつ然と姿を現し、瞬く間に青年層をはじめとする大衆の支持を集める指導者となったのでした。まさしく虚が実になった瞬間として、『インドネシアの紅はこべ』を読んでいたインドネシア人は熱狂したのでしょう。
が、タン・マラカを恐れたスカルノやシャフリルは彼を逮捕、裁判にもかけず二年半拘留しています。その間にシャフリル拉致やインドネシア共産党によるマディウン反乱によって情勢は大きく変わっており、釈放後のタン・マラカは以前ほどの支持を広げることはできず、オランダ軍へのゲリラ戦を展開中に、同胞であるはずのインドネシア国軍に東ジャワのクディリで捕まり1949年2月21日に射殺されました。享年52歳。生涯独身でした。
ところで、タン・マラカがほんの20年ほど前まで忘れられた英雄だったのにはいくつか理由があります。第一に、スカルノ時代に彼は国家英雄に認定されたものの、当時強大な勢力を誇っていたインドネシア共産党からタン・マラカは裏切り者と見られていたこと。戦前戦後の共産党蜂起に反対した人物は誤謬(ごびゅう)を侵さない政党にとって英雄として認められなかったのでしょう。第二に、反共のスハルト政権においても、共産主義者の彼を英雄として称賛することは都合が悪かったこと。何より彼を殺害したのがオランダ軍ではなくインドネシア国軍という事実はできれば伏せておきたかったのかもしれません。第三に、タン・マラカが構想していた完全独立とは異なる形ながら、インドネシアの独立が最終的にはスカルノらによる外交交渉によって実現したことが、彼の存在を歴史のかなたに遠ざけてしまったこと。言い方を変えれば、タン・マラカは「敗者」の側に位置づけされたのでした。
しかし、スハルト政権崩壊後の激動するインドネシアにおいて、タン・マラカは劇的な復権をとげました。書店では彼の著作や研究書が平積みとなり、雑誌テンポの「民族の父」人物伝シリーズの一人に選ばれ、左派系の若者の間では彼のTシャツを着るのが流行り、彼を主人公にした戯曲が上演され、ついには彼のことを「インドネシアのチェ・ゲバラ」と形容する人まで出る始末です。チェ・ゲバラよりもタン・マラカの方が先人なのに!
これらが可能になったのは、インドネシアで共産主義を語ることが必ずしもタブーではなくなった(ただし今でもイスラーム強硬派や国軍の一部から反発は強い)状況がまずあり、強権的なスハルト体制下で定められた公的な歴史の見直しが進んでいることを意味しているのでしょう。もっと言えば、タン・マラカの生涯と著作が「もうひとつのインドネシア」、「今とは違う形のよりよきインドネシア」、「民衆が虐げられないインドネシア」の可能性を示唆しており、それが今なお若者たちを魅了しているのかもしれません。
一世紀前に多くの人を魅了した共産主義社会の夢は20世紀の悪夢となったものの、チェ・ゲバラやタン・マラカのような志半ばで倒れた共産主義者の人生や著作が今なお多くの人の心をつかむのは興味深いことです。いずれ日本語でも彼の評伝が出版されることを期待したいものです。
人物伝『タン・マラカ 忘れられた共和国の父』KPG, 5万ルピア
さて、次回以降はお堅い国家英雄たちの話からはやや離れて、お化けが出てくる小説や映画の話をしていきたいと思います。それではまた次回!
<参考文献>
タン・マラカ 日野遼一訳 『大衆行動 インドネシア共和国への道』鹿砦社 1975年
タウフィック・アブドゥラ編 渋沢雅英・土屋健治訳『真実のインドネシア 建国の指導者たち』サイマル出版会 1979年
タン・マラカ 押川典昭訳 『牢獄から牢獄へ』鹿砦社 1巻1979年 2巻1981年
西嶋重忠 『増補 インドネシア独立革命 ハキム西嶋の証言』鹿砦社 1981年
押川典昭 「タン・マラカ 冒険小説を生きた男」(『別冊宝島EX 英雄たちのアジア』所収)JICC出版局 1993年
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