背筋に何やら「うすら寒さ」を感じる事件だ。警察機動隊本部収監所での暴動に触発されたかのような連続自爆テロ、そしてその爆発で目覚めたのか、多くの「テロリスト」がまるで地中から湧き出るように各地で治安部隊と衝突を繰り返した、あの一連の出来事である 。
なかでもショッキングだったのは、ふたつの自爆テロがまだ幼い子どもを含む一家によって行われたことだ。中東でのテロ事件では、警戒の目をくらますために女性や子どもを使うのが常とう手段のようになっているが、もちろんインドネシアでは初めての事例だろう。
まったく個人的な印象だが、インドネシアのイスラム社会を見る時には、穏健で落ち着いたムスリムやいわゆるイスラム復興の社会変化を歓迎する人たち、そしてイスラム主義者、過激なムスリム、更にはジハーディスト(聖戦主義者)と呼ばれるグループまで、イスラムの受け止め方や解釈、あるいは日々の生活や社会での実践の仕方は様々で、その多様さが大きなグラデーションのように連続的に存在しているとイメージしておくと、時事の問題を理解するのに便利なことが多い。初めてのバリ爆弾テロ事件後に徹底的な捜査、摘発をした際に、政府が神経質なくらいにテロと宗教は別だとムスリム社会に訴えたのも、犯人グループが必ずしも完全に社会から孤立した存在ではなく、そのグラデーションの延長上にあったことと切り離せない。
ところが、 子どもを道連れにした今回の自爆では、テロリストの側が、彼らの世界はその他のイスラム社会とは別の世界だと、決別を宣言しているように見えた。タクフィール(背教宣告)主義とでも言うのだろうか、無明の時代に不信仰者を根底から排除する世界観がこの国でも根を張ってしまったようだ。そこではグラデーションが途切れ、二つの世界をつなぐ対話の回路はもうない。そこに最初の「うすら寒さ」がある。
二番目の「うすら寒さ」は政府が再始動を発表した「テロ対策国軍合同司令部」だ。テロに屈しない強い政府を印象付けたいのかも知れないが、いかにも唐突で、長引くテロ対策でしびれを切らした決断のようにすら見える。内相や国会議長が「人権への配慮を理由に、治安に抜かりは出せない」という趣旨の発言をしているのも気がかりだし、国軍には権限拡大の意図もあるようだ。
政治と宗教を巡る中東諸国での知的な蓄積も、アラブの春以降の苦い政治的な経緯も、何よりもインドネシア国民の粘り強い対話の努力がしびれを切らした末の強権的な対応で果たしていきてくるのだろうか。
ジョコウィ大統領は外国首脳にしばしば、テロ対策はハードとソフトのバランスが肝要と語っている。そのバランスを崩して、中東を泥沼にしている「テロの再生産」がまさかインドネシアで起きることはないとは思うが、「うすら寒さ」はまだ消えない。(了)
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