「イスラムの聖句を焼却」と報じられた事件は、アホック前ジャカルタ州知事の宗教侮辱事件に劣らないセンセーショナルな見出しで、多くの人がその後の進展を心配することになった。ジョコウィ大統領が始めた「全国イスラム寄宿生の日」の式典で起きたこの事件は、聖句を燃やしたのが他ならぬインドネシア最大のイスラム団体であるNU(ナフダトゥル・ウラマ)の青年組織の行動部隊ともいうべきバンセルのメンバーであったために衝撃的だった。最も権威あるイスラム団体の下部機関が自ら聖句を燃やすなどということがあるのかというのが最初の印象だったが、続報を読むうちにイスラム社会の複雑な一面が感じられて来る事件だった。
イスラム聖句が書き込まれた旗を若者が式典会場に持ち込み、出席者の前で振ったのが事件の発端であったらしい。その旗は、昨年7月に政府が非合法化した国際イスラム組織ヒズブット・タハリルのインドネシア組織(HTI)が集会やデモの際に大量に使用して勢力を誇示するシンボルにしてきたので、一般にHTIの旗とみられている。大統領肝入りの式典でそのHTIの旗が振られたのだから、ジョコウィ大統領を支援するバンセルの若者が激昂したのも理解できる。HTIの関係者は、旗にはHTIの文字が入っているわけではなく、焼かれたのは聖句そのものだと攻撃した。こうした経緯を参考にしても、聖句が焼かれたことをムスリムがどのように受け止めるのかは筆者の理解を超えている。インドネシア人のある研究者が行った簡単なインタビューでは、あの旗をHTIの旗と見るか、あるいはイスラム聖句と受け止めるかはほぼ半々に分かれたという。
治安当局には、会場は国旗以外掲揚禁止だったから、旗を持ち込んだ青年もその規則に違反しているとしてけんか両成敗で早く幕を下ろしたい意向が垣間見えた。しかし、この事件を契機にHTIの非合法化は正当な措置だったかという問題提起が再びHTI関係者以外にも広がった現実を踏まえると、問題の中心となるのは、イスラムを個人のレベルだけでなく公的な領域にまで適用しようという動きに対して政府はどのように関与すべきか/できるのかというテーマの根深さであろう。ヒズブット・タハリルは中東諸国を含め18カ国で非合法化されているからインドネシアが特に不当な措置を取っているわけではないという議論は別として、政治や国のあり方にイスラム的なものをどのように、どの程度組み入れていくかという問題は、特にムスリムが多数を占める国々にとって共通の課題だ。
スハルト政権は30年以上にわたって、インドネシア民族の一体性と国是5原則(パンチャシラ)を金科玉条として、政治的にも社会的にも微妙なこの議論が社会で行われること自体を強権的に排除してきた。他方で、今や国民の自由な意思が国政で最大限に尊重される時代になったとは言っても、この問題を国民的なテーマとして一からやり直したら収拾のつかないことになりそうな心配もある。暴走しかねない議論に一定の枠をはめながら、大多数の合意を形成し直すのは考えただけでも大変だと思う。これまでのところインドネシアはうまくバランスを壊さずにやっているように見えるが、この事件を見ると先行きはまだ長そうな印象も受ける。
事件が注目されたもう一つの理由は言うまでもなく選挙がらみだ。対応を誤ると、「イスラム聖句が燃やされたのにジョコウィ大統領はやっぱりイスラムに冷淡だ」という烙印を再び押されかねない。他方で、穏健なNUの支持層に誤解を与えたくもないので、全国的な抗議行動の中でのバンセル解散要求は政府にとっては煩わしい要求であったろう。
また、アホック知事の事件では、ムスリムか非ムスリムかで社会の分断が進んだが、今回は同じムスリムの間で亀裂が生ずる可能性があると心配する人もいた。選挙キャンペーン中の事件だったのであながち杞憂(きゆう)とは言えない。宗教と政治の微妙な問題を内包しているだけに、事件が紛糾する前に早めに収拾に向かったのは良かったとつくづく思う。(了)
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