多くの法律の規定が錯綜しているために、許認可手続きが煩雑化し省庁間や地方政府との調整だけでも膨大な時間を要するなど、投資や企業活動を大きく阻害している現状を一挙に打開しようと大統領がいま最も熱心に取り組んでいるのが「オムニバス法案」であろう。今年の国会では優先的な立法計画として50件の法案を決めたが、この中に4件のオムニバス法案が入った。この中で最も議論が盛り上がっている「労働市場創出に関するオムニバス法案」では、労働市場創出という大きな政策目標の下に、80件近い法律の千数百の条項が統廃合され、一つの法律に整理されることになると言われている。
ジョコウィ大統領は昨年の独立記念演説でオムニバス法の構想を打ち出していたが、大統領の思いを断固とした決意に強めた一つの契機は、中国から海外に工場の移転を計画していた33社のうち23社がベトナムに、残りの10社はその他のアセン諸国に移転したが、インドネシアには1社も来なかったという衝撃的な報告だったろうと言われている。大統領はその後の関係閣僚会議で早速この問題を取り上げ、「問題は我々の外にあるのではない。我々自身の問題なのだ。投資許可に数年もかかる我々自身が問題なのだ。」と述べて危機感を露わにした。同じ頃に世銀が発表した「ビジネス環境ランキング」でインドネシアがベトナムよりも低い73位になったことも切迫感を高めたようである。
ジョコウィ大統領は第1期政権でも矢継ぎ早に経済政策パッケージを打ち出すなど投資誘致のための規制改革に熱心に取り組んできた。しかしインドネシアより経済開発ではずっと後発と思われてきたベトナムにまで遅れを取るような事態が現実に現れ始めると、国際社会どころかアセアン域内でのインドネシアの地位すらおぼつかないという危機感が募っても不思議ではない。大統領は昨年の独立記念演説で、「世界は投資を奪い合い、市場と人材まで奪い合っている。一歩づつの進歩では不十分だ。必要なのは、昨日より良くなることではなく、他国より良くなることだ。」と訴えていた。オムニバス法という大改革と関連づけて再び演説を読み返すと、大統領の必死さが伝わってくるようだ。しかもこの膨大な法案を大統領は国会に100日間で成立させて欲しいと期待している。
しかしこのオムニバス法に対するメディアの論調は厳しい。例えばコンパス紙は、「国民のためのオムニバス法」と題する社説を掲載し、法案策定作業を限られた関係者だけで秘密裏に進めたために、「法案は規制を簡素化するのではなく、働く者の諸権利を簡素化しているに過ぎない。」という反発が出ている、と論じている。法案策定作業は昨年10月の大統領就任を機に一挙に拍車が掛かったとされるが、策定過程のみならず出来上がった法案自体も未だに(8日時点)公表されていない。他方で、法案策定の作業チームには分野別の検討部会にまで経済団体の代表が参加していた。労働組合やその他の社会層にはそうした機会を与えられていないために、法案は一部の豊かな実業家を特別扱いしているのではないかという不満が生まれている。非公式に漏れてくる断片的な情報では、経営者と労働者の間で微妙に成立している最低賃金の算定方式とか、資源開発と環境の保全の間の調整とか、現行法で曲がりなりにも出来上がっている微妙なバランスを、投資環境の整備という政策的な要請に沿って根底から作り変えているようにも見える。このため、法案に対する国民の意見を細かく聞いていたら収集がつかなくなる可能性があるので、国会審議を100日に限定して批判が盛り上がらないうちに一挙に成立させる積もりなのではないかという声すら出ている。
この過程で興味深かったのは、ルフト投資等調整相の弁論だった。彼はテレビの討論番組で、「ジョコウィ大統領は貧しい環境で育った。投資環境整備のために国民が犠牲になることを彼が許すはずはない。投資と景気回復による労働市場の拡大は喫緊の課題で、そのために国民は一つになろう。」と理解を求めていた。好意的に忖度して言えば、「インドネシアは国際社会で勝ち抜く瀬戸際にある。インドネシアを豊かにするために、大統領と政府は誠意を持って取り組んでいる。その誠意を信じて、今は個別な意見の違いを超えて国民が一致して政府を支えて欲しい。」ということであろうか。
この発言を聞いていて思い出したことがある。開発独裁と評されることの多いスハルト大統領である。彼が失脚した原因の一つとして、一族による所謂ファミリー・ビジネスが指摘されている。そのファミリー・ビジネスがまだ大きな政治問題に発展する前の時期に、スハルト大統領が次のように呟いていたとその場に居合わせた友人が教えてくれた。「私の子供たちのビジネスに苦情が出ているようだが、子供たちは独り立ちして立派にビジネスで成功した。これまで多くの人が、発展したインドネシア経済について華人ビジネスに支配されたままだと批判してきたが、ようやく生粋のインドネシア人が経済の主役として登場できるようになったのだ。しかもそれで多くの人が職を得て収入を増やしている。」
スハルト氏が政権を奪取した後も長らく外国では、「豊富な石油を売って国民が食べる米を輸入している後進国」と言われ、「国家の開発資金は全て外国からの援助」という屈辱的な評価も受けてきた。同氏にしてみれば、自らの統治によって「米の自給を達成したし、全国の村々に電気も届けた。子供たちはもう裸足ではなく皆学校に通っている。自動車ですら曲がりなりにも国産だし、飛行機すら生産できる段階になった。貧しい村の子供だった自分が、遂に国を豊かにし国民生活の充足をもたらすことに成功した。」という気持ちであったであろう。彼には、少なくとも当初はファミリー・ビジネスが何故批判されるのかも理解できなかったのではないだろうか。
時代も政治環境も全く異なる二人の指導者を並べて書くこと自体に無理があるのだろうが、オムニバス法を巡る議論の中で、つい思い出した昔話である。最近、二人の発想の根底にどことなく似たものがあるのではないかと感ずる瞬間があるからかも知れない。多分勘違いなのだろう。(了)
0コメント